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幼少時代・時代背景

1956年8月25日、大阪市に生まれた。この年、日本がようやく国連に加盟したり、大阪市が他4都市と同時に政令指定都市に認定される等と、 まだまだ戦後の復興が続いており、経済は右肩上がりの時代だった。 同年代には役所広司、桑田佳祐、島田紳助、田中康夫、長渕剛、笑福亭笑瓶などがいる。

小学生時代は野球少年で、南海ホークスが好きだったが、中学時代に先輩後輩の上下関係に耐えられず野球を断念。 しかし、1968年に行われたメキシコオリンピック・サッカー日本代表の活躍を目の当たりにしサッカーと出会う。

このメキシコオリンピックの日本代表は銅メダルという快挙を成し遂げ(今でもオリンピックでは最高記録)、かの有名な「サムライバズーカ」釜本邦茂が7得点をあげ大会得点王になっている。 当時12歳と多感な時期にサッカーと出会った事は、非常に影響が大きかったと思われる。 当時は現在のジュニアユースというシステムがまだなかったので、中学生時代のレベルはあまり知られていないが、 天王寺高校入学後三年生になり、ユース代表に抜擢された。

その後1浪し早稲田大学政治経済学部合格。 この頃にはすっかりサッカー熱が冷めてしまい(プロリーグがなかった当時仕方の無い事だった)同好会で遊び程度にプレーするだけであった。

サッカー選手として

その後偶然にも西が丘サッカー場へ言った折りサッカー協会の人物と出くわし、アジアユースに行かせたのは将来を見込んでの事だった旨を聞き早稲田大学のサッカー部へと入部する事になった。 この辺が岡田監督らしい男らしさだと感じる。 決断が早いのはサッカーだけに限らず、学生結婚をしている。

ポジションはディフェンダー、決して体は大きくないが当時より状況判断に優れており、そのまま社会人へと進む事になる。 1980年、古河電工に入社。 言わずと知れたジェフユナイテッド千葉の前身チーム。 わずか二年後にA代表に招集される。 その後も不動の選手としてA代表やオリンピック代表に定着する。 また、1986年にはアジアクラブ選手権優勝も果たしている。 1990年、Jリーグ開幕まであと3年という所で現役引退を決意。

たまに、「自分のような選手がいたら使うか?」という質問を受けると「生意気なので使わない」と答えているが、 実際のところ練習に遅れていく事など普通なことで、 奥さんとデートをしていた為に、試合に間に合わずその試合を落としてしまうという凄い選手だった。

指導歴

その後古河電工のコーチに就任。 自信を持って指導していたものの、思ったように成果が出なかった。 選手時代は練習内容に口を出すほど自信を持っていた為に、 その悩みは深く所属していた古河電工にお願いをしドイツへ留学に出る。

すでに家族持ちだった岡田監督だが、 家族も留学先のドイツに連れて行く事が決まっていた。 ところが、海外でありがちな手違いに巻き込まれ、 家も車もチームもないという状況に追い込まれる。 言葉も分からない状況から勝手にチームのボール拾いを初め、 家を探し車を探しと大変な状況に陥った。

しかし一年後にはすっかりチームに溶け込みお別れ会を開いてもらったりしている。 当時を「戦術等目新しいものは何も無かった。かえって古臭く感じた。」と振り返っている。 ただ「そこで自分を見つめなおす事が出来た事が大きかった。」と言っているのは、 自力で海外へ行ったものには非常に良く分かる感覚だろう。

1993年に帰国すると華やかなJリーグが開幕しており、そのままジェフ市原のコーチに就任する。 当時ジェフの監督をしていた清雲監督の推薦から1995年には日本代表のコーチに抜擢される。 それから運命の1997年10月。加茂周監督が更迭となり日本代表監督に納まる。

もう残された時間が無かった為、内部からの昇格しかなかった事が大きな就任の理由だった。 そして見事に予選を突破し日本代表を初めてのワールドカップへ導いた。 本大会では全敗し国内では散々に批判されたが、 海外での評価は非常に高く日本にもしっかりとしたサッカーがあるという事を広く知らしめた。 また、まだ20歳だった中田英寿に海外移籍のきっかけを与えたのも岡田監督の大きな功績。

大会後すぐに辞任し一年間を充電期間としたが、その後北海道のJ2チーム・コンサドーレ札幌に就任する。 しかし、組織として非常に未熟であったコンサドーレはその年5位で終了し昇格出来なかった。 翌年全てを自分で切り盛りし圧倒的な強さでJ1に昇格した。 2001年度J1残留を果たした所で辞任する。 詳細は自らのモチベーションとしていたが、 事実その後コンサドーレは崩壊してしまい、チームの成績うんぬんどころか破産寸前の経営難に苦しんだ。

しかしこの時に、エメルソンや播戸竜二、山瀬功治、今野泰幸といった現A代表の選手たちを発掘育成しており、 大黒将志もレンタル移籍ながら1年間だけお世話になった岡田監督に対して「影響を受けた」と語っている。 また、どこからも誘われずに社会人リーグへ就職しようとしていた今野を見抜いた眼力も有名な話だ。

2002年は日本で行われたワールドカップがあり、解説者として日韓を飛び回っていた。 この時運命的な試合「ドイツ対アイルランド」を見ている。 「それは見られている事を意識しながら、わざとらしく伝えようとする表面的な意思ではなく、 本物の心の奥底から発せられた意思である」 「人の目など気にせず、自分の国に対する誇りと、遠く母国にいる人々の思いのために必死で戦っている姿は、 どんな着飾ったモデルや映画スターより格好よかった」 と目を潤ませていた。これが後に就任した横浜Fマリノスの基盤となる。

2003年横浜Fマリノスに就任。 良いメンバーを抱えながらどこか煮え切らない名門チームという印象のチームを2年連続優勝に導く。 この時、 「試合後のロッカールームでは横たわって動けない選手、胃の内容物を吐く選手がいた。 「もう十分だ」。私は胸が熱くなった。言葉がなかった。」 と話すほど徹底的に戦うチームへと変貌させた。 まさにあの時のアイルランド代表であったと感じる。 しかし期待された2005年は過密日程、怪我人と不幸が続き9位でシーズンを終えた。 2006年はなんとなく監督を続けているという印象が拭えなかったが、 やはりシーズンを途中にして辞任。 その後のマリノスはフラフラと中位を彷徨うチームに戻ってしまい、 組織としての未熟さを露呈している。

そして2007年12月。 万時順調に強化が進んでいた日本代表に悲劇が起こり、 オシム前監督が脳梗塞に倒れる。 白羽の矢が立ったのは岡田監督だった。 いずれにせよ再び代表監督になっていたとは思うが、 あまりの展開に本人もびっくりしていたと思う。

「人間万事塞翁が馬(じんかんばんじさいおうがうま)」

(大意)人生どう転ぶか分からない。

禍福は糾える縄の如し(かふくは あざなえる なわの ごとし)

(大意)良い事と悪いことは縒り合わせた縄のように表裏一体である。

が口癖。

戦術等非常に勉強熱心な反面、最後は気持ちが一番大切という根性論も持つ。 環境保護活動、チャリティー活動への関心が高く暇を見つけては参加している。